ファンタジーと言葉


ファンタジーと言葉

ファンタジーと言葉

(”分量”の関係で英語圏以外の読者にはわかりにくいものや、日本の読者になじみに薄いテーマのものは省いたそうだ…未訳10本。”日本の読者”といってもいろいろだろーに。)


The Wave in the Mind: Talks and Essays on the Writer, the Reader, and the Imagination

The Wave in the Mind: Talks and Essays on the Writer, the Reader, and the Imagination


先日、テレビでジブリの『ゲド戦記』が完成したのをやっていた。
どんな話なのか気にはなってたけど、
ハリー・ポッター指輪物語に限らず、
どーもファンダジー小説?が苦手なので
いくらまわりが騒いでいても、近づくことはなかった。



でも作者の本をたまたまみつけて、この人の書いた話なら読んでみたいなと思えた。


 物語がありふれた経験やみなの知っている現実から遠ざかれば遠ざかるほど、願望充足は難しくなります。物語の本質的なアイデアはよけいに、ありふれた経験やみなの知っている現実に基づかなければならなくなるのです。

「わたしがいちばんよくきかれる質問」より


フィクションである源氏物語漱石の小説がいまだによみつがれる理由もわかる気がする。
斉藤孝氏の著作で引用されててドン引きしたのだが、
漱石の「私の個人主義」(講演録だが)を読んで人生つまづいた私にとっては…なんとなく
漱石の悩みみたいなのは時代に関係なく、自分の悩みに近いものを感じたりしたし、
源氏物語は…大和源氏だけど…女性の生き様の語と読むと、とっても深い話のように思える。
だから1000年も読まれてきたんだろうと思う。


 結局のところファンタジーは、語りという形のフィクションのうち、最古のものであり、最も普遍的なものなのだから。

 私たちが現在フィクションというとき、それは十八世紀以来の伝統を持つ小説と短編物語をさすが、
このフィクションは、自分と異なる人間を理解するために、直接の経験を除けば最善の手段となる。
フィクションはしばしばほんとうに、直接の経験よりははるかに役に立つ。直接の経験に比べれば
ずっと時間もかからないし、(図書館で本を借りれば)お金もかからないし、扱いやすい、きちんとした形で手に入れることができる。フィクションは理解することができる。経験のほうは、ただただ人を
圧倒して、何が起こったかわかるようになるのは何年も何年も経ってから、いや結局わからないことだってありえるのだ。フィクションが現実よりはるかにすぐれているのは事実、心理、道徳に関して、役に立つ知識を提供してくれるところである。


 しかし写実的なフィクションは文化に規定されるものだ。それが自分の文化の、同時代の話であれば、問題はない。一方、その物語が、別の時代の、別の国のものだとすると、それを読んで理解するためには、置き換え、あるいは翻訳という行為が必要になるが、多くの読者はこれができなかったり、したがらなかったりするのである。生活様式、言語、道徳律、習慣、暗黙の了解、ありきたりの生活細部のすべてが写実的なフィクションを作り上げている実体であり、力であるのに、別の時代の、別の場所の読者にはそれが曖昧で、解釈不能なものになってしまうのだ。だから自分と同じ時代に生きている同国人以外に、ほかの時代、ほかの国の人にも自分の物語を理解してもらいたいと望む作家は、より普遍的にわかってもらえるような語り方を探すかもしれない。ファンタジーはこうした語り方のひとつなのである。
「現実にそこにはないもの」より

1 わたしたちはみな男である
2 わたしたちはみな白人である
3 わたしたちはみなホモでもないし、レズでもない
4 わたしたちはみなキリスト教徒である
「自問されることのない思い込み」より

アメリカ人って感じ。
でもこれって日本の社会にも通じるもんがあるだろうなー。
とくに1.

 読むというのは非常に神秘的な行為です。これまでに見ることが読むことの代わりをしたことは絶対に一度たりともありませんし、これからも、どんな種類にせよ、見ることは読むことに取って代わりはしないでしょう。
「わたしがいちばんよくきかれる質問」より