不機嫌不愉快な私

最近、たまに、感情が露骨に表情・態度(しぐさ)に現れているのが自分でもわかる。
瞬間以上10分以内。
なんでやろー。
わかっているけど、とめられない。
ホルモンのせいかな(笑)。


なんか、それなりに人に気をつかってはいるのだが、
あんま、無理しなくなった
わかっているけど、とめる気がない。
年のせいかな(爆)。


焦りを感じる、とかいわれたんだけど、
ちゃっちゃとできる仕事はちゃっちゃとやった方がいいと思うんだよね。
考えんでもわかろーが!的なところ。
そこ30秒でかえられるのに、なんであなたで話とめてんの?みたいな。


は、やはり仕事でひっかかりを感じているんだな、自分。
機動力が……ってか危機感なさすぎにみえる。自分には。


そういや今日、上の上の上の上の上司が読めといってた本を買って読んだ。

上司をマネジメントするってこういう発想、自分にはなかったです。
あと、ドラッカーに限らず、
自分の時間のマネージメントやら目標の設定やら。
時間は有限、仕事してる間は無駄にしたくないもんだ。


でも正直なところ、いまいる会社で将来どうこう…って目標がない自分には、
ここで働き続けていくことにむなしさを感じたんだな〜フィードバックの最中に(爆)。
一人で仕事するよか、いろいろ体験できるかな?とか思ったんだけど、
一人でだって、ひとりだからこそ、いろいろやること、つながりがふえていくんでないの?とも考えたり。
漱石の『私の個人主義』(青空文庫…よみがないらね。本のほうが見やすいな…)が頭をかすめたぜ。”始終中腰”、”鶴嘴”あれを読んだのは…4年生の時だ。


不機嫌な理由はここかな〜。不愉快と不機嫌…?…「何をやっても不愉快」。「何をやっても不機嫌」。
…不愉快なのかな〜。

1905年(明治38年:38歳) - 『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
1907年(明治40年:40歳) - 朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
1910年(明治43年:43歳) - 胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
1911年(明治44年:44歳) - 養父塩原に金を無心される。2月、文学博士号辞退。8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
1913年(大正2年:46歳) - 強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
1915年(大正4年:48歳) - 12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
1916年(大正5年:49歳) - 12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。(wikipedia


49歳かーーーーーー。


しかし、よく会社で10年後とかの自分が想像できたりするもんだな。
最近は(年とったら)、1年あっちゅーまだから考えられるのかな。
想像するから10年働けるのかな。


 以上はただ私の経験だけをざっとお話ししたのでありますけれども、そのお話しを致した意味は全くあなたがたのご参考になりはしまいかという老婆心からなのであります。あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫(すんごう)の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心をもっているからといって、同じ径路があなたがたの模範になるとはけっして思ってはいないのですから、誤解してはいけません。


 それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわり[*「こだわり」に傍点]があるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は忠告がましい事をあなたがたに強いる気はまるでありませんが、それが将来あなたがたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。


”海鼠のような精神を抱いてぼんやり”しているから私は不愉快なのか……そうかもしれん。
尻を落ち着ける場所を、そこと決めるのと、あったあったといって決めるのは違うよな。
でもどっちがいいとか悪いとかよくわかんないけど。
そりゃ、あったのだ!の方が強かろうて。
蓋をしてても…


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そういや買ったけど、まだ読んでない。
目標・計画、時間作り出すかな。