多和田葉子『言葉と歩く日記』から

ハンナ・アーレントの映画、
近所にまだやってこないのだが、
作家の多和田葉子さんの本に感想があったのでメモ


ハンナ・アーレントによれば、ナチスの一員として多くのユダヤ人を死に至らしせたアイヒマンは、
悪魔的で残酷な人間ではなく、ただの凡人である。
上からの命令に従わなければいけないと信じているまじめで融通のきかないよくいるドイツ人である。
個人的にはユダヤ人を憎んでさえいなかったが、上の命令に従い、
自分の義務を果たさなければいけないと信じ、ユダヤ人を殺せと命令されれば殺してしまう。
凡人が自分の頭でものを考えるのをやめた時、その人は人間であることをやめる。
どんな凡人でも、ものを考える能力はある。考えることさえやめなければ、
レジスタンスなどとても不可能そうに見える状態に追いつめられても、
殺人機械と化した権力に加担しないですむ道が必ず見えてくるはずだ。
言語を使ってものを考えることができるということ、
それが絶望の淵にあっても私たちを救う。そう語るハンナ・アーレントの英語はまさにものを考えながら
しゃべる人間の息遣いに貫かれ、聞いているうちに涙が出てきた。


アメリカの大学に朗読と討論会で訪れたときの話

今日の質疑応答では、司会者からの質問はあらかじめ渡されていた。会場が大きく、他にも作家がいる場合は、
答えは短い方がいい。答えの多義性はひたすら映像性に託し、ごちゃごちゃ言い訳じみた注釈をつけないほうがいい。
複雑なことを短く答えるのだから、禅問答の文体などが参考になる。
例えば「コスモポリタンになるには一度根なし草になる必要がある、とある作家が述べていますが、それについてどう思いますか」という質問があった。私の答えはこうである。「私は植物ではないので、もともと根はありません。わたしの日本に関する知識は、根にあるのでなく、脳の中にあるのです。だからポータブルです。」
国際的な場で話す場合は、まず日本語で考えて英語に訳すのでなく、映像で考えてそれを英語に訳す。
映像は鮮明でシンプルで多義的なものを選び、たとえ英語力が貧しくても聞き手に届くようにする。