明治大学社会教育主事課程年報 No.15


毎週、全国の大学からたくさんの紀要が届いているが、
即行で書庫なので、学生の目に触れる機会は少ないかもしれない。
ま、書庫といっても開架書庫なので、自由に出入りできるのだけれど。


で、そんな新着紀要を1冊ずつ配架していくわけだが、
当然のことながら、いちいち読む暇はない。
たまにぱっと目につくものもあっても
上智のどの学科かの紀要はおしゃれな冊子だった)
自分に余裕がなかったので流してきた。


だが、入って2ヶ月、
やっぱりもったいないので新着で気になるものを
読んでみようという気になり、選んだのが



明治大学社会教育主事課程年報 No.15』



明大の教育主事の課程を履修した卒業生や学生の
職場の様子や実習の報告などがまとめられたものだ。

これを借りようと思ったのが、


菊地紘子さんの
「読み書きの力の獲得と生きる力 
〜日本語読み書き教室(大田区)の実践から〜」


が気になったから。

この読み書き教室では
戦争の混乱や貧困で学校に通えなかった人(主に60〜70代)に加えて
不登校だった若者(主に10〜30代)の学習に注目する。


この時代、この日本に30代で読み書きに困る人がいんの?と
失礼かもしれないがかなり意外だった。
不登校といったって読み書きくらいはできるでしょ、なんて思っていたけれど、
現状は違うらしい。


フリースクールに通えない人もいるというし、
一度中学を卒業してしまうと夜間中学などには通えないそうだ。
筆者は「学校教育から切り捨てられ、忘れ去られてきた人々」といっているが
まさにそうだ。

読み書きができないということはその機能的な不便さの上に、
何倍もの精神的苦痛も伴う。上記の行動の制限(問診表や書類の記入など)を受けるたびに、悔しい思いや恥ずかしい思いをし、「自分が読み書きできないことを知られたらどうしよう」というおびえがつきまとう。そういう思いを”させられてきた”経験が、次の行動を幾重にも抑制し、読み書きできないことが人に知られないように、何歩も後ずさりをして生きていくことを選択させてしまう。自己肯定感・自信をもてないことがその人の人生を大きく左右する。


読み書きができないことが自己肯定、社会参加すらできなくさせる。
「文字の読み書きという基本的な学習が保障されない」社会であってはならない。
筆者もいっているが、個人の問題というより、社会の問題だろう。


試行錯誤を繰り返しながら教室は運営されていったそうだが、
職員である筆者や講師の信頼関係ができていったことが
ひとりの講師の「勉強するだけじゃなくて人とのつながりも大切にしている」の発言につながり
参加者同士の関係作りに力をいれていくなどして、教室も盛り上がっていったそうだ。




とにかく不登校児の学習のフォローの必要性に気づかされたレポートでありました。