早稲女たちとの秋


友達が久々に市立図書館にいったそうだが、
カードを作って一度も借りずに3年経過していて云々(登録しなおし?)。
で、借りようと選んでる本が転職とかそういう感じのばっかで自分で驚いたそうだ。


選ぶ本をみりゃ、そりゃわかりますがな。
いろんなことが。
私は人の家にいくと真っ先に本棚を見るいやなやつ。


…だから、自動貸出返却装置は必要(笑)
貸出カウンター不要(小学校の時からしってる”先生”がいるんだもん…)。


で、今日、さくっと読んだ本に角田光代さんのエッセーがあった。

わかりやすいな…
いや、自分の生活、めっちゃフラットな状態でして(爆)


小説自体が苦手な私はこの人の小説は読んだことがない。
たまたまテレビで山に登ったりしてたのはみたことはある。
ざっと読んで、早稲女かーで納得した。
並行して読んでる多和田葉子さんも早稲女だ!(笑)


溶ける街 透ける路

溶ける街 透ける路


で、へーと思ったのが角田さんの本のP.294

 それから十数年たった。私は今、あのとき望んだように、とりあえず物書きとしての仕事を続けている。しかし続けてこれたのは才能の故ではないとはっきりわかる。もしこの先続けられたとしても、また続けられないにしても、そのどちらもまた、才能の故ではないのだろうとうっすらと理解している。何かをするのに資質は必要だが、才能は不必要である。才能という言葉を、今の私はてんで信じていない。
 ものを書くことについてでもいいし、もっとべつの、料理を作るとか歌をうたうでもいいが、あふれるような才能があったとする。しかしそんなものはその持ち主を助けてはくれない。だれもが感動する料理を作れたとしても、十年後、二十年後も同じように、料理でだれもを感動させられるとは限らない。その時間の流れには、人々の味覚の変化も素材の変化もあり、料理全般そのものの進化がある。そういう変化に対応できず(またはかたくなに拒絶して)その人の料理が廃れていくのなら、才能なんて実はなかったということになる。一時の才能は、奇跡と言い換えたほうが正しい。そうして才能より、一瞬の奇跡を手に入れることのほうが、案外かんたんなのかもしれない、なんて思うのである。
 才能というのはあとづけの何かだ。一生続けることができたその一生の終わりにこそ、才能という言葉を持ってくるべきだ。二十何歳かでもらえるべきギフトではない。それが私の個人的な「才能観」である。

まわりをみててもそう思う。


話はずれて
私のまわりにいた早稲女たち…。
印象は…みんな気が強かったよ(2人は東京、1人は東北)。
幼馴染も早稲田だが、がんばりやさんだ。
でもどっか不器用(人のことは言えないが…ってかあそこに3人いたことからして…)。

KOに行った従姉は軽やかに、しなやかに要領よくやってる感じだけど。
…偏見?先入観?